南西糖業株式会社

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徳之島について

徳之島の地図

事業所・サトウキビ関連記念碑のご紹介

景勝地マップ

徳之島の景勝地

犬の門蓋(いんのじょうふた)─天城町

永い年月にわたって、強い季節風と波浪の浸蝕をうけた断崖や奇岩が屹立し、東シナ海と対峙して雄大な景観を呈している。“むかし島に飢饉があり、飢えた犬は群れをなして人畜に危害をおよぼすようになった。島民はこれを捕らえ、ここから海中へ投じたという”ことからこの名がついたといわれる。

犬の門蓋

秋利神架橋(あきりがみかきょう)─天城町

秋利神大橋

秋利神川を挟んだ両岸約4Kmにおよぶ曲りくねった坂道は、島内最大の交通の難所であったが、平成 8年10月に秋利神架橋(天城大橋(245m)、秋利神大橋(115m))が開通し、島民生活はもとより地域産業に大きな貢献が期待できる。また、天城大橋中央部から展望する東シナ海の眺めは見事である。

犬田布岬(いぬたぶみさき)─伊仙町

カルスト地帯(石灰岩の台地)と高麗芝の美しく調和した島の西南端に突き出た岬で、鋭く切り立った断崖と打ちつける怒涛の光景は圧巻である。
この地には、昭和20年4月にこの岬の沖合で米空軍により戦没した戦艦大和乗組員の慰霊塔がそびえ立っている。

犬田布岬

樹齢300年ガジュマル

樹齢300年ガジュマル

ガジュマルは常緑性植物で、生命力が強く繁殖力の強さから「幸運の木」とも呼ばれ、徳之島の各地で見られますが、阿権のガジュマルは樹齢300年を超えると言われており、これほどの大きさのものは島内随一です。

喜念浜(きねんばま)─伊仙町

島の東南端にひろがる長さ1キロメートル、幅 100メートルに及ぶ白銀の砂丘地帯である。太平洋を遠望し、絶好の海水浴場となっている。

景勝地-喜念海岸

花徳海岸(けどくかいがん)─徳之島町

花徳平野を流れる万田川と下田川の河口にはさまれた銀砂の砂丘で、後方に擢鉢山をひかえた絶好の海水浴場である。

金見崎(かなみさき)─徳之島町

数百メートルにもおよぶ美しいソテツの自然林のトンネルをくぐりぬけると、太平洋と東シナ海のふたつの海洋が眼下にひらけ、珊瑚礁のかなたにトンバラ岩にくだける虹模様の白波と、はるか北方に大きく横たわる奄美大島の展望は見事である。

ソテツジャングル

ムシロ瀬─天城町

ムシロ瀬

島の最北端にあって、波にあらわれる海岸の岩がムシロを敷きつめたようなところから、この名がつけられた。

ウンブキ

“ウンブキ”は方言で、「海の谷、洞窟」という意味を示し、湾屋という地域にあることから地元では「湾屋洞穴」と呼ばれることもある。
この鍾乳洞は400m先の海底とつながる海底洞窟で、地下水(淡水)と海水が混ざる汽水環境(アンキアライン)となっている。
ここには日本で初確認されたウンブキアナゴを含め、とても貴重な魚やエビが棲んでいる貴重な場所でもある。

発見したのは、水中探検家で水中カメラマンの広部俊明氏で、日本のみならず世界各国で調査活動を行っている。

サトウキビ関連記念碑

犬田布騒動記念碑

※ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典:「犬田布騒動」より引用

犬田布騒動記念碑

犬田布騒動(いんたぶそうどう)は1864年4月23日(文久4年3月18日)に徳之島の犬田布村で起きた百姓一揆。農民の立場から、犬田布義戦(いんたぶぎせん)とも呼ばれる。

サトウキビを産する奄美群島は当時の薩摩藩の過酷な砂糖政策により搾取を受けており、砂糖総買入制によって島民による砂糖の売買が禁じられていた。

騒動の発端は農民の一人新山為盛が砂糖の横流しの疑いにより捕らえられ拷問を受けたこととされている。為盛救出のため犬田布の農民150人余は暴動を起こし、仮屋を包囲、役人を追い、森に7日間篭城した。

奉行所も村民全員を罪人にはできず、7人を島流しして無血解決した。この騒動は奄美群島全域に知れ渡り、その後の砂糖取締りは大いに緩和された。

その後、後にこの騒動は島唄『徳之島節』の歌詞として歌われるようになった。1964年には犬田布岬にて百年祭が挙行され、犬田布騒動記念碑が建てられた。また、これを題材として戯曲『犬田布騒動紀』が伊集田実により作られた。

サトウキビの碑

【碑文より】
 奄美群島の生命産業ともいうべきさとうきびは 今をさる約三七〇年前大和村の直川智翁によって あらゆる辛酸を凌ぎその漂流地である中国福建省から伝えられ 慶長一五年(一六一〇年)には 大和村戸内で黒糖百斤(六〇キロ)が製造されたという
 爾来 奄美群島の歴史にはさとううきびの歴史が大きな比重をしめ群島民の生活とは密接な関係にある また 封建の世からわれわれの先祖が さとうきびの栽培に呻吟した幾多の苦難の道も語りつがれている
 今後も 基幹産業としてその振興が期待され 群島民の生活を支える大きな力となることである
 鹿児島県農業試験場徳之島糖業支場の創立五〇周年を迎え 新庁舎の竣工にあたり 大茎種(POJ二七二五)をはじめ多くの優良品種を選定したこの地に碑を建立し 創業の人の遺徳を敬慕し 先祖の業績をしのび 将来のさとうきび生産の躍進を希求するものである

   昭和五三年一二月二日
   さとうきびの碑建立事業協賛会

サトウキビの碑

サトウキビ310号記念碑

サトウキビ310号記念碑

【碑文より】
 アフリカ、ナタール原産「NCO三一〇号」の優秀性と當地方に最適の品種たることがはんぜんとしたので、元大和製糖株式会社、社長乾純之助氏は昭和三十二年琉球農事試験場より種苗の分譲を受けこの地区にはじめて移植した。以来三カ年で原苗圃一町二反歩を完成、これが種苗を五カ年間にわたり無償配布すると共に畦地区ほか原野約八十町歩を開墾、その他農地の基盤整備を積極的に進め、極力その普及増植をはかった。この品種の普及が徳之島糖業中興の礎となった。
 私共は先見の明ある乾純之助氏の偉大なるご功績をたたえ茲に記念碑を建立し、本品種の永年の保持を希うと共に本群島糖業の限りない発展を祈念する。

   昭和五十五年九月吉日

   建立者
   元大和製糖株式会社 従業員一同
   花徳校区民青年団一同

   協賛
   下久志以北至手々各部落区長一同

12万トン達成記念碑

【碑文より】
 奄美群島におけるさとうきびの歴史は慶長のころ(西暦1600年初期)直川智翁が中国からひそかに導入し大島本島大和村で栽培普及して以来今日まで370年の長い間郡民の生命産業として発展して参りました
 特に大東亜戦争前後の生活窮乏期には真に島民の食糧源として また砂糖産地を失ったわが国の唯一の甘味資源供給地として大きく貢献してきました 更に将来も長い伝統を伸長させ わたしたち郷土の発展を名実ともに助長することは確実であります
 幸いにして今年は奄美群島が祖国へ復帰して25周年を迎えるにあたり さとうきびの見直しを行なうと同時に史上初の生産量12万余トン反収8トンを達成したことを契機に 今後ますます発展していくことを祈願し 社会教育の殿堂であるこの地にさとうきび生産農家の総力を結集しさとうきびの碑を建立しその偉大さを未来永劫に伝えんとするものである

   昭和53年10月8日
   天城町さとうきびの碑建立委員会
   会長 吉岡為良

12万トン達成記念碑

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